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東京地方裁判所 昭和49年(行ウ)115号 判決 1976年11月25日

原告 大木義光こと 牛来義光

右訴訟代理人弁護士 中平健吉

同 河野敬

被告 国

右代表者法務大臣 稲葉修

右指定代理人 房村精一

同 川満敏一

主文

一  原告が日本国籍を有することを確認する。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

主文同旨

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告は、昭和一九年三月一〇日中華民国山東省青島特別市江蘇路において、昭和一六年ころから事実上の夫婦であった牛来義信、木本文子の長男として出生した。

義信と文子は、昭和一九年四月八日婚姻届出をなし、義信は、昭和四二年六月一七日原告を認知した。

2  ところで、原告は前記のとおり事実上の夫婦であった義信、文子の子として出生したものであるから、その出生当時、父が存在しなかったものとして、その国籍は先ず母文子の国籍によって定められるべきものであるところ、文子は、大正一〇年一二月一〇日、朝鮮元山においていずれも日本人(内地人)たる木本平太郎、同英江の二女として出生したもので、日本人(内地人)として日本国籍を有するものである。

もっとも、文子が義信との婚姻届出に際して提出された戸籍抄本の記載によれば、戸主平太郎の本籍地は朝鮮咸鏡南道安辺郡新茅面新城里一五九番地とされている。

しかしながら、右戸籍抄本の記載は、適法な戸籍原本に基づかない内容虚偽のものである。その経緯は次のとおりである。すなわち、英江は文子を出産した直後に病死したため、平太郎は、当時元山在住の朝鮮人李鍾国に文子の養育を託し、満州方面に出稼ぎに行き、爾来消息を絶った。文子は、李鍾国のもとで養育されていたが、昭和一〇年ころ平太郎を捜すべく、満州へ赴き、その後、更に中国の青島に渡り、昭和一六年ころ同地において知り合った牛来義信と事実上の婚姻関係を結ぶに至った。

文子は、義信との婚姻届を提出するために戸籍抄本を入手する必要に迫られ、李鍾国に対して戸籍抄本の送付を依頼したところ、李鍾国は文子の戸籍が不明なので、便宜上、昭和一九年三月八日、戸主平太郎の本籍地を前記のとおりとする虚偽の朝鮮戸籍を編製せしめ、右戸籍抄本により、文子は婚姻届の手続を了した。

そして、平太郎について他に朝鮮戸籍は存在しない。

以上のとおりの次第で文子は生来の日本人(内地人)であり、しかも原告は、朝鮮戸籍に登載されていない者であるから、昭和二七年四月二八日の日本国との平和条約発効によっても、日本国籍の得喪に影響はない。

したがって、原告は日本国籍を有するものである。

3  よって、原告は申立掲記のとおり被告に対し原告が日本国籍を有することの確認を求める。

二  請求原因に対する被告の認否及び主張

1  認否

(一) 請求原因1は認める。

(二) 同2のうち、文子の婚姻届に際し主張のとおりの戸籍抄本が提出されていることは認めるが、右抄本の平太郎の本籍地の記載が内容虚偽のものであることは否認する。その余の事実は知らない。

2  主張

文子は、牛来義信との婚姻前は、朝鮮戸籍の適用を受けていたものであるから、原告もまた朝鮮戸籍令の適用を受ける者に該当するところ、昭和二七年四月二八日、日本国との平和条約が発効するまで、原告には身分の変動は生じておらず、右条約発効時朝鮮戸籍令の適用を受ける者であったから、同人は右条約の発効により日本国籍を喪失したものである。

第三証拠≪省略≫

理由

一  請求原因一の事実は当事者間に争いがない。

二  右の争いのない事実によれば、原告は、事実上の夫婦であった義信、文子の子として出生したものであるから、法律上父が存在しなかったものとして旧国籍法三条によって母文子の国籍を取得することになるというべきである。

そこで、先ず、原告の出生当時の文子の国籍について検討する。

≪証拠省略≫を総合すれば、次のとおりの事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

1  文子は、大正一〇年一二月一〇日、平太郎、英江の子として出生した。

すなわち、平太郎、英江はいずれも日本人(内地人)であるが、仔細があって、朝鮮元山に赴き、平太郎は、朝鮮総督府の鉄道局が経営していた車輪工場の大工として就労していたもので、文子は元山で出生した。

しかし、文子については出生届がなされていなかった。

ところが、英江は、文子を出産した数か月後死亡したため、平太郎は文子の養育に窮し、当時、親しく交際していた朝鮮人米穀商李鍾国夫婦に、文子の養育を託し、自らは出稼ぎに満州の新京方面へ渡り、爾来消息を絶った。

2  文子は、李鍾国夫婦の下で生活し、同人らを両親と思っていたが、昭和一一年(当時一四才)ころ、自分の部屋で、日本式の礼服(紋付)、訪問着、御守及び「父木本平太郎、母英江、娘文子」と記載された紙片を発見したことが発端で、李鍾国から自己の出生の秘密を打明けられた。

そこで、文子は昭和一三年(当時一六才)ころ父平太郎を捜すために新京へ赴いたのであるけれども、同人の所在は不明であったため、中国の青島へ渡り、マッチ製造会社に勤務していたが、その間、義信と知り合い、昭和一六年五月ころ、同人と事実上の婚姻をし、昭和一九年三月一〇日同所において原告をもうけた。

3  文子は、原告を懐妊したころから婚姻届をする必要性があるものと考えて、李鍾国に対して戸籍抄本等婚姻届に必要な書類の送付方を依頼したが、李鍾国は、文子の戸籍が存在しないのみならず、平太郎の本籍地も確知していなかったため、虚偽の戸籍を作成することとし、自己の小作地が多数存在し、面役場にも顔がきくことから、昭和一九年三月ころ、同役場において、朝鮮咸鏡南道安辺郡新茅面新城里一五九番地を本籍地とし、戸主欄、姓及び本貫密陽朴、姓名木本平太郎、生年月日明治二八年九月七日、木本文子欄、父木本平太郎、母同英江、二女姓名木本文子、生年月日大正一〇年一二月一〇日なる戸籍抄本を作成交付せしめ、更に義信、文子両名の婚姻届及び双方の戸主の同意書をも作成し、婚姻届出に必要な書類一切を整え、右書類にもとづき、婚姻届をなしたところ、昭和一九年四月八日両名の右婚姻届は受理された。

以上のように認定した理由をさらにふえんする。

(一)  平太郎、英江が生来の日本人である事実は、≪証拠省略≫によって認められる、(1)平太郎、英江が朝鮮人であれば、朝鮮内に親戚、知人が存することが推測され、李鍾国に文子の養育を託するようなことも考えられないこと、(2)李鍾国は、文子を朝鮮人普通学校へ入学させることなく、カトリック系で日本人教師のいる海星普通学校へ入学させているのであるが、それは文子が日本人であることのためであったと認められること、(3)平太郎の勤務していた前記工場は朝鮮鉄道局の経営する秘密工場で、同人は鋳物の木型を作る大工であったが、右職種に朝鮮人が従事することは殆んどなかったことに照して肯認できるところである。

(二)  文子の前記戸籍抄本の本籍地の記載が内容虚偽のものであることは、(1)内地人について朝鮮戸籍が作成されることは法令上あり得なかったものであること、すなわち、日韓併合条約以降、朝鮮人は、日本国籍を取得したけれども、旧国籍法の適用を受けない(国籍法を台湾に施行するの件、国籍法を樺太に施行するの件参照)のみならず、専ら朝鮮戸籍令に拠って戸籍事務が行なわれ、内地に施行されていた旧戸籍法の適用はなく、戸籍関係法令に関しては、内地人と朝鮮人は截然と区別されていた。その結果、内地人にして朝鮮に本籍を有したり、朝鮮人にして内地に本籍を有することは、婚姻、養子縁組等身分関係の変動を伴う場合(共通法三条一項参照)のほかには、転籍、就籍、分家、一家創立、廃絶家再興によることは不可能であり、かつ、事実上も例はなかったものである(民事局長回答大正一一年五月一六日民三二三六号、法務局長回答大正五年七月一〇日民一一二七号参照)こと、(2)右戸籍抄本の本籍地が、平太郎の生活の根拠地である元山ではなく、同人とは全く関係が認められず、李鍾国の小作地の多数存する安辺郡とされていること等の事実に徴して肯認できるものといえる。

そうすると文子は、日本人(内地人)である平太郎、英江の子であるから、出生のときから内地人たる法的地位を取得したものであるというべきである。

三  以上によれば、原告は前示のとおり事実上の夫婦であった義信、文子の子として出生したものであるから、旧国籍法三条の規定により母の国籍たる日本国籍を取得したものということができる。

ところで、≪証拠省略≫によれば、原告は、出生当時から現在に至るまで朝鮮戸籍に登載されていないことが認められ、また前記次第で朝鮮戸籍に登載されるべき事由の生じていないことは明らかであるから、内地人たる法的地位を有しており、したがって昭和二七年四月二八日の日本国との平和条約の発効によっても、日本国籍の得喪により影響を受けず、現に日本国籍を有するものといわなければならない。

四  よって、原告の本訴請求は理由があるから、これを認容することとし、訴訟費用の負担について、民訴法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 内藤正久 裁判官 山下薫 飯村敏明)

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